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私は仙台の生活協同組合「あいコープみやぎ」で
環境担当の記事、話題を提供させていただく活動をさせていただいています。

生協ですから、当然「組合員」がいるわけで
組合員向けの勉強会の企画をしたり
機関誌連載「たいせつなこと」というタイトルで
環境の話題提供をしています。

あいコープみやぎは
今回の震災で多大な被害を受けました。
私たちのために「安心・安全」な野菜、米、お肉、味噌、魚、加工品を作って下さっていた
大切な大切な生産者の皆様におかれましては
深刻な状況の方達がたくさんいます。
現在、その生産者さんと共に
復興に向けて前を向き始めたところです。

あいコープみやぎは31年前の設立から
「石けん派生協」です。
石けんを切り口に、水質の改善のための取り組みを行っています。

今回の被害で、仙台市蒲生浄化センターと仙塩浄化センターが
甚大な被害にあいました。
仙台市、塩竃市、多賀城市では今でも
節水のお願いが、市の方から出されています。
通常の処理が不可能なため
「簡易処理」による放流が行われているようです。
これは、消臭系消毒剤を使い、その酸化力により消毒を行う方法です。
一部では、センターへの流入機能が低下
マンホールから下水が溢水する可能性があり
市は「環境負荷低減」への協力を市民に訴えています。

被災地では海の底に溜まっていた汚泥が陸に上がりました。
この汚泥に含まれる「化学物質」に
被災地の皆さんは苦しめられています。

化学物質は、私たちの身の回りに沢山あります。

台所用合成洗剤。
洗濯用合成洗剤。
消臭剤、芳香剤、柔軟剤・・・
農薬、ガーデニング用の虫除け、蚊取り線香、蚊取りマットなどなど・・・

それが私たちの台所から流れ
下水処理上に向かいます。
残念ながら、合成界面活性剤は完全に処理されず海に流れます。
そして、消えて無くなることはありません。

戦後、石けんの代わりに作られた「合成洗剤」。
当時は石けんの主成分である食用油を
「食べた方がいい」という考えから、石油系の主成分である
合成洗剤に変わったといいます。
その後の公害問題はみなさんもご存じの通りですよね。

その戦後、60年以上の年月をかけて溜まっていた
有害化学物質が、東北を襲いました。

石けんの良いところは
自然分解することです。
魚の餌にもなります。

「石けんは使いにくい」
という方もいらっしゃいますが、そんな事を言っている場合でしょうか。
節水を売りにしているコンパクト洗剤も
実は合成洗剤です。
濃縮したからといって問題の解決になりません。
海の底に残り続けるのですから。

そこで、私は私の出来ることとして
「石けん」をお薦めする記事を
ブログで書いていきます。

今まではごくわずかな組合員むけに
発信していましたが
多くの方に理解していただき、石けん派が増えることを信じて
発信していきたいと思います。
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by kai-takasaki | 2011-04-28 11:10 | 石けん生活




あの日から、49日。
尊い命を失った方々の、ご冥福をお祈りいたします。
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4月16日にお引っ越しをしてから10日がたちました。
昨日インターネットが繋がり、全ての環境が整ったところです。
こちらにきてからもなお、必要ない物が出たり、買い換えた物も沢山あり
そんな日常を送っていると、暮らすって楽しいな。と感じました。

長女はたくましいです。

初登校の日からいたって「普通」。
友達をつくり、グループの班長になり、放課後は公園でサッカーをしていました。
正直、子供のことは心配していませんでした。
親が不安だと不安になるものです。
私はこの引っ越しが楽しみだったし、実際わくわくしていましたから
子供だってわくわくのはずなのです。

アパートは珍しい間取りで
部屋に階段があり、上に部屋がついています。
一軒家でいうところの二階部分が
子ども達の新しい部屋になりました。

大喜びです!

ここ冨谷には、小さな商店街があります。
駄菓子や文房具を扱っているお店、ここはかわいらしいおばあちゃんがいます。
もともと煙草やさんみたいです。国産煙草がない中
どっさりとストックがあり、主人は大喜びでした。

小さな魚屋さん、肉屋さん
300年以上前から続く酒屋さん
カウンターだけのお寿司屋さん
骨董やさんがありました。
長女の運動着を買った呉服屋さんの奥様は
なんと私の母の同級生。
なんとなく町並みも、私の故郷の岩出山に似ています。

この一週間の間は
静かで淡々とした日常がありました。
朝起きてお茶をゆっくり頂き、朝食を食べ
洗濯をして掃除をする。
買い物に行ったり、姉が同じ町内なので遊びにも行きました。
主人の職場も自宅から近くなったので
夕食も一緒に食べられます。
洗濯物をたたみ、もとの場所へ仕舞い
夕食の後片付けを済まして、子供とお風呂に入る。

「お休みなさい」

そんな毎日でした。
仕事は自宅でできるものだけやっています。

ゆっくりと。

そんな言葉がぴったりくる日々でした。

震災の事は常に頭にあります。
放射能の影響で、洗濯物を外に干せなかったり
窓を開けられない日もありますが
この現実をやっと受け止められるようになりました。
これから何十年も続くことですから
うまく付き合っていくしかありません。

こんな穏やかな日々の中で
起こってしまった地震被害です。
いつ、どんな時に起こるか解らないことにおびえるのは
もう止めようと思えるまで、心は回復しています。
それより、日々のやるべき事を
ひとつひとつ、丁寧にこなして
やはり淡々と生きていきたいのです。

話はかわります。

私には「夢」があるのですが・・・

しかし、どうもその「夢」のあり方、自分がどうなりたいかというのが
本質的には変わらないのですが、この震災で
どう「叶えるか」という過程が明確になったように感じています。
そのことを試されるような出来事が、引っ越しの最中にあり
選択を迫られました。

私の出した答えが正しいのかは解りません。

ただ、断った後に
「ほっとした」というのが
全ての答えだったと信じています。

直感を信じたいと思います。

めまぐるしく変わっているように感じた日々。
それは見慣れない風景や、人々との出会いがそうさせる錯覚で、
本質は何も変わっていないと感じます。
「暮らす」とは「生きる」とは
そういうことだと、思っています。







日々淡々。
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「またね」


今日、住み慣れたここ蒲町から
隣の冨谷町へお引っ越しをします。

地震がなかったら
ここにいたと思います。
あの日から、感じていたことがあります。

「もう、ここじゃない」

それは逃げるとか、気分を変えるとか
そういう次元の話ではなく
どちらかというと「直感」です。

どう生きるか。

そんな感覚と似ています。

こんな大変な時に
時間をつくって話をしにきてくださる友達がいて
「あー、私って幸せ者だな・・・」
と感じました。
私はお別れで泣くのは嫌いなの。
大げさではなく、あっさり旅立ちたいのです。

みんな「またね」って言ってくれる。
それが嬉しいです。









お知らせ。
25日までブログをお休みします。
環境が整いましたら
また書きます。
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「人は人に育てられる」


明日の引っ越しの前に
髪の毛を切ってさっぱりしたい!
と思って、いつもの美容室へ行ってみたところ
「七時からなら大丈夫」
と言われ、先ほど髪を整えていただきました。

私の髪を
10年間切って下さった美容師さん。

お腹に長女が宿っていたとき
「ここにずっと暮らすのだから、地元の美容師さんを探そう」
そして出会ったのが彼女です。東さんと言います。

波長が合う。
というのが決めてでした。
彼女の最大の魅力は、「引き出してくれる」という事です。
それは単にヘア・スタイルだけではありません。
ひとりひとりに寄り添う気持ち、話、彼女に会うと
+アルファがついてくるのです。

不思議な事に
東さんの所にくるお客さんは
特別な理由をもって生活している人が多い。
彼女と話すと、楽になるというか
何かに気がつく事ができるからかもしれません。

そんな東さんと
震災の事を話しました。

「なぜ自分は生きていたのだろう」
と感じて、自問自答している人が沢山いること。
自分は「生かされて」これから何をしたらいいか、考えたこと。
友達が素早い判断で、優先順位をはっきりさせて
ここ仙台を離れる様子を見て
「何が大事か」わかったということ。

「自分」という一個人の生き方を鮮明に浮き彫りにしたような話ばかりでした。

私は彼女をとても信頼しているので
引っ越しをしても髪を切っていただきに来ます。
家族全員、彼女の事が大好きなのです。

車で帰るとき
私たちが見えなくなるまで
ずっと手を振ってくれました。
そういう人なんです。

何が大事か
本当に心から
解っている人なのです。
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「現在・過去・未来」


3月11日の本震と、その後の大きな余震で使えなくなってしまった物を
震災ゴミとして、臨時ゴミ置き場になっているニッペリアというサッカー場へ持って行きました。

ニッペリア(略してニッペ)は、娘のサッカーの試合で何度も行った場所です。
サッカーグラウンドが二面ありました。
そこが、今はでは家電や家具、瓦礫の山でした。
家電の山というのを、初めて見ました。
冷蔵庫、テレビ、洗濯機・・・。

「洗濯機が飛んだ」
「テレビがジャンプして倒れた」
「箪笥の引き出しが勝手に出てきた」

・・・たしかに。
そんな形跡のある「ゴミ」に変わっていました。

我が家も「どうしたらこんな風に物が崩れる?」
という状況でした。
震災ゴミかぁ・・・。
何だか、気の遠くなる光景でした。

ニッペを出るときに、次女が言った言葉が印象的でした。
「ままぁ、ここ、おねえちゃんのサッカーのとこだよ。またおうえんにこようね」
私は「そうだね」と言うのがやっとでした。

先が見えない不安が押し寄せたとき
今までだったら「遠い未来をイメージ」して乗り越えてきました。
遠い未来に不安になったときは「目の前の事に集中」することで希望がもてました。

今は・・・。

どちらも出来ない状態です。
遠い未来も、目の前のゴミも・・・

そんな事を考えていてたら、戦後の復興や同じく震災を乗り越えてきた
日本の姿をテレビで放送していました。
今より過酷な状況の中、人々は「手」で瓦礫を撤去していました。
そして、リポーターは「60年後の町です」と言って、高台から見える町を紹介しました。

遠い過去にこんなにも
勇気や希望をいただいたのは
初めてかもしれません。
戦争を経験した事のない私は
どんなに映像や授業でそのことを教えてもらっても
やっぱり人ごとのように感じていました。
今回の地震は
形は違っても「戦争の後のような」経験でした。

その遠い過去の映像を見て
「あ、大丈夫だ。東北は復興できる」
と初めて確信したような気がします。
日本人の大先輩が、大丈夫だったのだから
私たちにもきっとできる。



できるのだよ!
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新しい物件が見つかったのは、奇跡に近かったのですが
契約書が届きません・・・(笑)
忙しすぎるのだとか。
被災された方のお引っ越しが大変なのです。

順番逆になりますが、鍵を頂きたいので
契約金を先に振り込みました。
今日は鍵をもらいに行きます!

引っ越しはパワーだ。
素早い判断力で、捨てる捨てないを区別し
自分に「今」必要なものだけを持って行く潔さも必要と感じます。
そして、これからどう暮らすか?
毎日主人と話しています。

私は家内として「家を守る」役目です。
生活のコーディネーターでもあります。
これにかけてはプロですよ。(給料ないけど)
図面とにらめっこして
なんとかある物で生活したいところであります。
主人は新しいダイニングテーブルが欲しいとほざいていますが
私は「いりません」と反対しています。

だって・・・

使わないんだもの。

ダイニングテーブルセット・・・
ソファー・・・
ベット・・・

私たちのスタイルに合わない!と処分したのを
お忘れになったか、ご主人様。
日本人を絵に書いたような私たちに
そのような家具はいらないのでございます。
私たち家族に必要なのは・・・
簡易畳ではございませんか?!

却下させていただきます。

今日は新居の細かいサイズを測ってこよう。
大きい余震が来ませんように!
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今日は風向きが良いです。
太平洋側に吹くので
放射性物質は内陸にはこないという予報です!

・・・ということは。

洗濯を外に干せます!
子供と外で遊べます!
部屋の換気ができます!




というような情報が毎日ほしいですね!
私はドイツ気象庁のホーム・ページでチェックしています。
これからは、天気予報、花粉情報といっしょに
「放射性物質拡散情報」をお願いします。




日本の気象庁さんに言っているのですよ。
お願いします!
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一ヶ月経ちました。

この一ヶ月の間に、普通だったら決めなかったことを決断しました。

「お引っ越し」です。

今だから書くけど。
福島原発事故が始まった、地震2日目。
私は恐ろしくて恐ろしくて震えていました。
逃げたい。子供はどうする、どう守る?
昨年書いた記事(原発の事)の資料を見直したり
チェルノブイリの資料を見直したり
ちょっと、パニくっちゃた・・・。

情けない話です。

でもね、みんなそうだったと思う。
あちこちに密かに移住し始める人達も出てきたし
原発が落ち着くまで、実家に帰る人もいました。

原発に詳しい方からは
「逃げられる場所があるのなら逃げなさい」
と言われたこともありました。

でも、多くの人は
ご主人だけを置いて、別の場所に行く事はできない。
というごくごく当たり前の考えで、ここ(仙台)にとどまることを決意しています。
私もそうです。主人と離れるなんて考えられない!

そんな時
主人の転勤先が決まったのです。
地震が起きていなかったら
主人はここから28キロ先の勤務地まで通ったでしょう。

でも、これから余震が何年か続き
いつきてもおかしくない宮城県沖地震(30年に一回)が来たとき
家族は主人の仕事先から近い場所にいた方がいい。

1000年に一度の、今回の地震は
宮城県沖地震ではない。

そう聞いたとき、泣きたくなりました。

誰でも良いから、ウソでもいいから
今回の地震が「宮城県沖地震」だった。と言って欲しかった。

そんなわけで、
家族の決意は、方向性が決まれば
動くのみ。半日で全てを決めました。

今週の土曜日にお引っ越しします。
メゾネットタイプの素敵なアパートです。
しかもプロパンガス。ラッキーです!
地震の時、プロパンは強かった。
都市ガスがまだ復旧されていない事を聞くと
これからもプロパンがいいと感じていました。
近くに公園もありました。
長女の通う小学校も勉強にとても力を入れているようです。

引っ越し準備の最中、大きな余震がきました。
11日となんら変わりない揺れは
進んでいた町の復興を寸断。
停電。断水。町の修復を阻みました。

家の中はまたぐちゃぐちゃ。
道路の起伏が大きくなっていたり
お店の天井が落ちていたり
前より被害が大きくなっている所も。

私は食器のほとんどを処分しました。
色々な物がなくなり
本棚はひとついらなくなりました。
本当にこれから必要なものだけ残りました。

「なーんだ、これだけで生きていけるのね」

さぁ、一からやり直し。
今後、どんなものを作ろうか
新天地で考えたいと思っています。
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昨日は一昨日深夜の地震の影響で停電になってしまいました。

また、やり直しか・・・

正直、部屋の中を片付ける気持ちにも料理を作る気力もありませんでした。
主人は「出かけるぞ」と言って
家族を車に乗せ、向かった先は亘理荒浜。

私と主人が出会った場所です。

共通の教え子が沢山います。

荒浜中学校は毎年「50キロを歩く会」という行事がありました。
福島県相馬市から荒浜中学校まで歩くコース、七ヶ浜火力発電からのコース。
もうひとつあったけど・・・忘れてしまった。(一番しんどかったコースだから?)
早朝にスタート地点にバスで移動、6時からスタートです。
教師は前日から学校に泊まり込む人もいました。

50キロって、すごいよ。

楽しいピクニックとは全く違う。真剣勝負です。
ただ、歩くことを目的とした、自分との戦いの時間なのです。

何カ所か中継地点があり、給水やマッサージが出来ますが
それは全部父兄が先回りして用意して下さいました。
私たちはとにかく、歩くのみでした。
若い男の先生は一番きつい最後尾。ペース配分が乱れるのできついのです。
三年生の男子も最後尾。頼もしい限りでした。

ラスト10キロになると
「自由歩行」といって、誰と歩いてもどんなペースでも許されます。
私は自分の担当クラスの男子生徒に
「走ろう!」と言われ
ラスト10キロを走って帰りました。
・・・走った方が楽なのです。使う筋肉が違うからだと思うのですが。

時間は夜の7時くらいです。

町の人達の協力で、行灯の灯りが用意されます。
その灯りが美しく、ありがたく、温かいのです。
椅子に座って「頑張れ頑張れ」と応援してくれる町のお年寄りの姿がみえました。
「先生、がんばれー!生徒にまけるなー!」
と小学生の声がします。
私は当時まだ若く(27歳くらい?)ソフト部顧問で
体力は中学生には負けないくらいあったので
本当に余裕で走って帰りました。

行灯の灯り・・・。

昨日、その場所は壊滅的だと理解しました。
町がありませんでした。
主人と泣きながら、人を探しましたが
自衛隊の方しかいませんでした。

生徒の家をひとつひとつ回りました。

全て壊れていました。

テレビの映像を見ただけでは感じとれない、町全体の空気感がそこにはあります。

それは、人々の思い。情念みたいなものです。
長い歴史の中でこつこつと作り上げてきた物が
一瞬で無くなってしまう悔しさ、はかなさを愛おしむ
行灯のような温かい灯りのような「祈り」と似た感情も。


「無情だな」

主人はぽつりと言いました。

そして、気の遠くなる瓦礫の山、山、山・・・。
復興?どうやって?

そんな中、どうしても会いたい教え子がいたので
彼女の家へ行きました。
家はなんとか残っていましたが、使えそうにはありません。
なんと、片付けをしている人が・・・
ご両親でした!

「Aさんは?無事でしたか?」

大丈夫。Aは生きていました。
主人の学年の一番活発な女の子でした。
卒業後、何度も遊びに来て
今は外国をあちこち回って暮らしていました。
荒浜に帰ってくる度「ただいまぁ」って声を聞かせてくれた。

良かった。生きてて!

小さな町ですから、訃報はすぐ聞こえてくるそうです。
その日、Aさんのご両親に聞いた訃報。
町を出るとき、手を合わせてきました。

流れてきた舟が、あり得ないところに止まっていたり
道路が無くなっていたり
中学校が・・・もうダメだね。
あのグラウンドで
ソフトボールを教えていた日が、もう信じられない。

荒浜の卒業生。
頑張れ、頑張れ。
未来を作って欲しい!

国家も自衛隊も東電も頑張れ!

何年もかかるけど
かかってもいいから、
美しい荒浜をもう一度。
美しい日本をもう一度。
電気で煌々と照らされる町並みではなく
行灯の灯りでやさしく夜を照らす
月の光が美しく見える日本を

もう一度。
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